ハ短調ミサK427番の作曲の背後にあるもの

伊藤正文(B1

 

アマデウス・モーツァルトが生まれたのは1756年、J.S.バッハが忘れ去られ、失意のうちに亡くなった6年後である。
 J.S.バッハがメンデルスゾーンに再発見されるまで、100年もなぜ忘れ去られたのか疑問に思って調べたことがある。あの偉大な大バッハが何故忘れ去られたかすぐ分かった。簡単なことだった。

 

J.S.バッハでバロック様式の音楽が終わり、J.S.バッハが集大成したバロック音楽、厳格な様式で作られた音楽に人々は飽きてきたということ。J.S.バッハはそれぐらいバロック音楽をやり尽くし、音楽家としてそれ以上やる人がいないところまで行ってしまったということのようである。アマデウスの父レオポルト・モーツァルトは音楽教育家としても第一級だったと言われているが、その彼が、息子にバッハを聴かせなかった。その理由は「J.S.バッハの音楽は今、流行りではない」。流行らない音楽を聴いた息子に悪影響を与えたくないと考えていたのだという。では、何故、アマデウスはJ.S.バッハを知り得たのか?

 

1982年、ザルスブルクの大司教と喧嘩して、ウイーンに出てきアマデウスはズヴィーテン男爵と知り合った。男爵は当時の愛好家の中では珍しい保守主義的音楽愛好家で、バッハ、ヘンデルしか自分の音楽サロンで演奏させない人だった。アマデウスはそこでJ.S.バッハと出会い、写譜を沢山し、厳しい様式で表現された音楽の影響のもとで、多くの作品がアマデウスのペンから生まれるようになった。更に、数ヶ月後にそのサロンで、将来の伴侶となるコンスタンツェと出会う。「彼女はヘンデル、バッハしか聴こうとしません。・・・ある日、僕にフーガを書かないのかと尋ねました。僕が否定的に答えると、音楽の中で最も芸術的で、美しいものを書こうとしないことをなじりは始めるではありませんか・・・・・・」(姉宛モーツァルトの手紙 1782420日)。

 

彼の将来の伴侶が、集会の度にその良さを見出だして気晴らしをしているらしいモーツァルトを厳しい目でにらみつけながら、彼をJ.S.バッハに突如として結び付けた。1782年のうちに、アマデウスの様式の中でとげられた変化は実に素早い。≪前奏曲とフーガ≫K394や古いスタイルによる≪ピアノのための組曲≫K399が同時期の日付にある。もっと軽やかな作品と果たして同じ手から生じたものか疑問に思うかもしれないが、当時、既に古い芸術に深く入り込むのは、偉大な巨匠たちとの真剣で長い接触を必要とした。モーツァルトはそれ以前にバッハやヘンデルを知らなかった。・・・バッハの≪平均律クラーッヴィア曲集≫から5曲を書き写した≪5つの四声フーガ≫K405など次々に対位法を取り入れた作品を書き・・・・(ジョルジュ・ド・サンフォア「バッハとモーツアルト」より)

 

ハ短調ミサK427はコンスタンツェのために作曲したといわれている。ザルツブルグにいる父親に結婚を認めてもらうために、彼女のソプラノ歌手としての実力を聞いてもらうためともいわれている。未完ではあったが、初演ではほかの曲を流用して演奏された。

ハ単調ミサK4271983年アマデウスがJ.S.バッハの音楽に衝撃を受け、これを自分の中に取り込んで書いた初めてのミサ曲。ザルツブルク時代に作曲されたミサ曲と随分違うことが分かる。ザルツブルグを離れて以降(バッハを知ってから)、宗教曲をほとんど作っていない。完成しているのはモテット≪アヴェ・ヴェルム・コルプス≫K618だけである。

 

 

 

練馬区民合唱団はRequiemを以前取り上げ、ハ短調ミサK427を今回演奏する予定で、アマデウスの1982年以降作曲された宗教曲全部を歌うことになるが、J.S.バッハの音楽を頭に描きながら、演奏したいものである。二重合唱やフーガを歌いながら、≪マタイ受難曲≫や≪ロ短調ミサ≫に思いをはせる。

モーツアルトとバッハに絡んで
日本モーツアルト愛好会の講演から
原佳之:フーガがモーツァルトの後期クラヴィーアソナタに与えた影響.pdf
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